携帯から流れ読まずに投下。フェイクあり。
私は保育園から高校まで父親からギャクタイという名のものを全て受けた。
家族は父親、母親、私、妹の四人家族。
父親は無職で毎晩シ酉を野み私や母親に膀胱する。当然貧乏で食べる物も全くない。
母親が何度か働きに出るが父親は世間体が悪いとすぐに辞めさせる。
米が尽きたら親戚の家に私と妹が行き「お米をください」と言っていた。
この時私は5歳か6歳だった。そのうち三番目の妹が出来た。
続きます
ある日、シ酉に酔った父親が真ん中の妹を連れて出かけた。
深夜に枕元で母親が「妹がタヒんだ」と泣いてた。
大通りを妹が飛び出してスピードの出た車に轢かれ即タヒだった。
それから父親は「シ酉を辞める」と言うが1ヶ月ももたず更にギャクタイが酷くなった。
小学校高学年になる頃には私だけが標的になった。骨は折られ、腕は指され、
手にタバコを押し付けられ首は絞められ足には熱い天ぷら油を落とされた。
母親はやがてそれらのギャクタイを見てみぬフリをし寝ていた。
でも母親に助けて欲しいとは思わなかった。
続きます
母親は父親がいない時は優しかったし二人で買い物に出かけた時はこっそり
アイスや食べ物をヘソクリ?で買ってくれた。
今思えば罪滅ぼしか何かかも知れない。
遠足の弁当も全財産1000円を持って買いに行った事もある。
たまたま親戚のおばさんに出会いおばさんに「明日遠足!」と笑ったら
何かを悟ったおばさんは1000円を握らせてくれた。
あのお米をくれたおばさんです。
小学校では勿論いじめにも合います。
身なりが酷かったので当たり前ですね。貧乏な家の弁当はどんなの?
と遠足前に開けられたり蹴られたり無視されたり。
そんないじめは全然辛くなかった。痛くないからです。
長くてすみません。もう少しです。
家でのギャクタイの方が生命に関わるからです。
そんな私も中学になり初めて月経が来ました。
母親だけに話しましたが学校から帰ると父親もやはり知っていました。
恥ずかしいのと嫌悪で不機嫌な私に父親は「女になったからって調子にのるな!」とナグりました。
このあたりから体を触ったりするギャクタイが始まりました。
触るだけですんだのは幸いです。
そんなある日父親と喧嘩した母親は出ていきました。
支援ありがとうございます。
私は高校生にもなって「お母さん、待って!あたしも!」と泣き叫びましたが
無視され結局置いて行かれました。
それから父親と妹と三人で暮らしましたが毎日が生き地獄でした。
精神的に病んでいた私は風呂場で手首を切りました。
でも怖くてためらい傷ばかりでした。
そんな私を見た父親は静かに「タヒぬならタヒね」と言いました。
結局タヒねない私はこのまま暮らすしかなかったです。
転機がきました。いつもの様にギャクタイを受けていた私に父親が「出ていけ!」と言いました。
私はすぐに荷物をまとめ部屋を出ました。出る前に妹が黙ってゲームをしてるのが見えました。
でも私は連れて行かなかった。
今でも後悔してます。
私は自転車に乗り高校ではなく中学校に行きました。
夜も遅かったので友達に電話し迎えに来てもらいました。
その日はそこで過ごし次の日は違う友達の家に行こうした所で高校の先生につかまり
校長室に連れて行かれこれまでの話を聞かれました。
一人の先生が同情してくれたおかげで保護される事になりました。
次の日、父親を含めた大人で話し合いの場を設けられましたが父親は来ませんでした。
結局、父親方の親戚に預けられましたが1ヶ月程で母親の元に行く事になりました。
母親は実家に帰っていたのです。
親戚は最後に父親と話をしてから母親の元へ行こうと言いました。
私は嫌でしたが仕方なく行く事になりました。家に帰ると父親と妹はどこかへ出かける所でした。
私を見た父親は驚いていました。
親戚の人が「この子はもうここでは暮らせない。○○(私)ちゃんも挨拶して。」と言いました。
その時父親が「もうギャクタイもしないし干渉もしないから一緒に暮らしたい」と言いました。
私はそれを聞いて「もう暮らせない」と言いました。
家を離れる時、やはり妹が心配で仕方なかった。
けれど妹にはギャクタイしてなかったのが幸いです。それっきり父親とは会ってません。
次が最後です
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