流れ切って失礼
長くなったので分けます。読みにくかったらごめん。
私と妹が小学生だったころの話。
ある日、母がいなくなった。
母は当時、趣味とか飲み会とかで家を空けることが多かったから
私達子供からしたら、またどっか行ってんのかーぐらいの認識で
特に疑問に思うこともなく一週間過ごした。
二週間目になって、母が帰ってこないことに関して父から色々問い詰められたけど
どこに行くかもいつ帰って来るかも聞いてない、と言った。
「本当だな?」と念を押され、うんと答えると次の日にK察署へ行くことに決まった。
長い聴取を終え、なんとか捜索願を出した。
その日から父は、「なんかの事件に巻き込まれたんじゃ」とかブツブツ言いながら
テレビにかじりつき、私達には「連絡は?」「繋がんないの?」
「もし繋がったら〇〇って言っといて」と言い付けていた
心配ってよりは躍起になってる感じだったのを覚えてる。
続きです。
三週間目に入るかそこらの日に母が保護されたと連絡が入り三人で二度目のK察署へ。
父だけが部屋に通され私と妹は廊下のベンチに座って待った。
程無くして父の怒声と母の悲鳴。あと知らない男の声。
父と男がやり合っているらしい、部屋の前に立ってた警官が慌てて中に入っていった。
どうにか収まったみたいで三人の声も止み、ドアが開いた。
両腕に痣だらけで涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃの母と無表情な父とその後ろに男。
子供心に男の顔は見れなかった。
そのあとはゆっくり家庭が壊れていった。両親の修羅場に私達子供が巻き込まれた話。
K察署から帰る時とか、家庭崩壊していく話を詳しく書いて欲しかった。
両腕のアザって、注射の跡ってこと?
ゆっくり家庭崩壊を私も知りたい
そこあとはの部分を聞きたい気もするが
きっとトラウマなんだろうから聞かないでおく
>>130
両腕の痣は母が男からうけたDⅤの跡でした。
K察署から家まではよく覚えていないんですが、
その後両親は一時は話し合って再構築に向かいました。しかし
しばらく経ってから件の男が家電に留守電を残したことがあって、
その内容からはまだ母との関係を絶っていないことが伺えたので
父は暴れ母は泣く、子は傍観といった感じでした。
今は家庭内別居状態です。
すいません、吐き出したいことがいっぱい沸いてきたんですが
うまく文に出来ないので、時系列ごとにまとめてから来ます。
今まで家族にも友人にも仮面被ったように接してたから
ただ聞いてくれるこの場所がありがたいです。
なんか震えてきた。
>>137
まだ両親離婚してないんだ?
長い家庭内別居だね
間男が夫婦の家に留守電残すってwww
大人が誰もかれも真性バカばっかだったのか
つくづく乙
>>127です。度々失礼します
覚えてることを時系列ごとにポコポコ埋めただけなので、流れが
不自然な点は目を瞑って下さるとありがたいです。
最初に不穏な空気を感じたのは、父が昇進のため(?)に
仕事に打ち込み始めたとき。
この時私は小学校低学年、妹は園児。社宅をでてマンション住まいになってから
もともと少なかった夫婦の会話がほぼ無くなった。
父は仕事から帰るなり食べる→風呂→寝るのルーチン、
母はノイローゼっぽくなり言い掛かりみたいな理由で怒るように。
母の日にあげようと造花のカーネーションを椅子に隠しておいた
→「最低!花をこんな所に置くなんて!!」
体育着や靴下の替えがなく、洗濯してという
→「ハイハイお母さんが全部やればいいんでしょ!」
でも頑張りを褒めてくれるのも母だけだった。
(テストで100点とった、書道で金、学級委員長になったとか)
だからお母さんに手間かけないように、と得意げに
何日も同じ服で学校に通ったりしてた。
靴下もジャージも穴だらけでボロボロだった。
友達にはいつも同じ服着てるねと言われ、
なんとなく恥ずかしくなった。けど自分はえらい!とも思ってた。
小六の夏だった。
続きです。
ある日母がいなくなった。(>>127-128に書いた通りですが、少し書き足します。)
元々家事育児は母で、父は黙々と仕事だけしてる人という認識だったから、
父が母奪還に躍起になってる姿が不自然というか、
そんなことしなくてもお母さんそのうち帰ってくるのに!なんて思ってた。
そして、何故か捜索願提出後のある朝に父が
「…サヨナラっ…!!」
と演技がかった涙声?で出勤していったことがあったけど
私と妹は意味がわからずポカーン。
(結局これはポーズだった。
お父さんサヨナラって出て行っちゃった!
どうしよう!と母に泣きつく私達
↓
我が子が家に二人きり!?と心配し母帰宅
↓
めでたしめでたし。の構図を描いたらしい
私達には理解できず空振りに)
一週間後、母が見つかり引き取ってから間もなく家族会議(父と母のみ)。
・スキンシップをする
・男のいる飲み会には行かない
・件の男とは縁を切る
ということが決まった。
冷えきってたはずの両親が急にいってらっしゃいのチューとか、
人前で腕組んで買い物とか正直受け入れられなかった。
仲良しごっこなんかしなくていいのにって始めて両親に嫌悪感を抱いた。
続きです
そして相変わらずな母は一ヶ月位の間に
・男の留守電
・趣味で知り合った男と二人で飲みに行こうとしたメールを押さえられる
この2つで約束を破り父と二回目の家族会議。
このときは醤油のボトルがキッチンを舞ったり皿割れたりで騒がしかった。
この会議では
・家庭内別居
・家計管理が母→父へ
が決まった。
私達姉妹は離婚したら母に着いていくと決めていたので、(父とは会話がなかった)
「お母さん働くから貯金して三人で暮らそうね」
この言葉は本当に嬉しかった。
中学生の私の心の拠り所だった
翌月から月8万+母のパート代で生活することになった。足りない月は…
というかこれ欲しい、あそこ行きたいというと
「じゃあお父さんから貰ってきなよ(笑)」と返されるので遊ぶのも欲しいものも我慢。
(学費も母から父へ、父から母へと押し付けあいになり最終的には父が払うことに)
そんな生活が何年か続いた。
うすうす本当は離婚する気が無いんじゃないかと勘付きつつも
離婚をせっついたりしたのは母の価値観で育てられた私から
母がいなくなるのが考えられなかったから。
続きです
でもそんな考えも吹き飛んだ出来事があった。母は激怒したり我を忘れると
「ったくきっちげぇ!」
というなまり?語尾?が出る。幼い頃から母に言われた記憶があるなじみのフレーズ。
今まで意味があることすら考えなかったのに、
…まさに言われた瞬間に理解してしまった。
なんかもう憎い恥ずかしい恐ろしい悔しいとか
色々吹き出て興奮しちゃって涙が止まらなかった。
高校生になった私は、とにかく両親(特に母)への不信感が募って家出しまくった。
学校ではへらへらしてたけど頭おかしくなりそうだった。
バイトして携帯買って友達つくって普通の生活してる気になってたけど、
周りの子が恋愛とか音楽とか小説とかについて喋ってるの聞いてついてかなきゃっ!て必タヒ。
どこにも自分は居なかった。グラグラだった。
クラスの人が皆に配ってたハイチュウが私まで回らなかった、とかそんなことで一喜一憂してた。
3年になったところで本格的にダメになった。授業もサボりまくり呼び出される。
改行多過ぎで一個増えましたが、書き溜めた分はこれで最後です
支援ありがとうございます。
笑えるのが、父がそれをどこから聞いたのか急に父の母(祖母)と会うことになった。
祖母は何を言いだすのかと思ったら、
「うちのお兄ちゃん(伯父)もちっちゃいころ運動会が嫌だ嫌だってねえ…」
馬.鹿にすんなと思ったけど本気で言ってたから何も言えなかった。
相変わらず、私は学校に行かず家にも居られずひたすら歩いた。
パジャマ同然の格好で唐突に電車に乗ったりした。一通り動き回ると、
今度は家に帰って飲まず食わずで風呂にも入らずぼーっとしてた。
貧血で突然倒れた時は、なんか生きてる気がした。
母親クズすぎ
>>176
お疲れ様でした。しんどいね。
コメント
んで?
なーんか同情しにくい話だなぁ
長い。
で?