すまないがちょっと吐き出させて欲しい。
俺 31
兄 33
母親 58
親父 俺が5歳の時にタヒ去
一人っ子だと思っていた俺に兄がいると知ったのは16の時だった。
大叔父の葬式の後、泥酔した伯父が口を滑らせ俺は知った。
今まで従兄弟と思っていた男が兄だった。
俺は兄を叔父夫婦の子供で従兄弟だと思っていた。
叔父は隣の県に住んでいて、他の親戚と仲が悪く法事とかにもあまり来なかった。
従兄弟(兄)とも今まで数回しか会っていない。
俺は母親に兄について聞いた。
泣きながら話してくれた。
兄を妊娠した当時、子育てができるほどの経済的な余裕がなく、
子宮摘出して子供を望めなくなった叔父夫婦に養子にしてもらったと。
中糸色は今後子供が産めなくなるかもしれなくなるので嫌だったと言った。
当時はそれで納得していた。
今まで一人っ子だと思っていたのに、兄がいたという事がすごくうれしかった。
そして2年後
やはり泥酔した伯父の口から耳を疑う言葉がでてきた。
「××(従兄弟であり兄)の父親は○○(俺)の父親とは違う」
母親は初婚と聞いていた。
俺はどう反応してよいかわからなくなって動けなくなった。
伯父は話を続けた。
本当の事を教えてくれた。
母親が妊娠、喜びもつかの間不倫発覚。
間男は隣町の会社員。
既に中糸色できないくらい大きくなっていたため出産。
せめて子供が親父の子ならと思われたが、
生まれた後血液型を調べたら俺の親父とではありえない血液型。
親父、母親共にA型なのにAB型。
もちろん離婚騒動になったが、親父が既に40近かったため
次の嫁は望めない+ド田舎なので醜聞を広めたくない理由で
穏便解決+再構築。
生まれた子供は、叔母が子供を産めない体の叔父夫婦の養子となった。
親戚中に緘口令が敷かれた。
典型的な負け犬親父だったが、不倫母の心を自分に向けるため
再構築決定後すごい努力をしたらしい。
間男にどのような制裁が加えられたかまではわからない。
騒動から2年後俺が生まれた。
親父はうれしさのあまり、親戚中にシ酉を振舞ったそうだ。
俺が3歳の時、子供部屋が無かった平屋の家を二階家に建てなおしてくれた。
端午の節句の鯉のぼりの竿は組み立て式ポールではなく、親父が自分の山から切り出してきた木を使っていた。
七五三の時は衣装を着た俺を肩にかつぎ、職場にまで見せに行った親バカぶりだった。
その親父も七五三の後まもなく心臓発作でタヒんだ。
親父がタヒんでからの生活は一転して貧乏になった。
服を買ってもらうなんて殆ど無くなった。
親戚からお下がりをもらって過ごした。
学校で使うジャージも貰った物だ。
学ランも親戚からのお下がりだ。
母親は役所の臨時で働いてくれて俺を育ててくれた。
それだけは感謝している。
小学校に上がってからずっと鍵っ子だった。
母親の帰りは夜8時~9時。
晩御飯は自分で作る。
今でも一人で初めて作った麺だけのラーメンの寂しさははっきり覚えている。
午前様や一人で寝て、朝起きると隣で母親が寝ているという事も少なくなかった。
一人で寝る時寂しくて何度も泣いた。泣いても母親はとどかなかった。
もっと早く帰ってきて欲しいと泣いてすがったが、仕事だから仕方が無いと言われ変わることは無かった。
10歳の夏に風邪をこじらせた。
熱が40度近くなり、足腰に力が入らなくなり立てなくなった。
立てないと母親に助けを求めたが、熱はともかく立てないなんて嘘つくなとナ.グ.られた。
そんな時でも夜遅くまで俺は一人だった。
母親が男と一緒に帰ってくる。
男は高熱で朦朧としている俺を病院に連れて行ってくれた。
俺は肺炎になっていた。
後で知ったがその男は既婚の市議だった。
何とかタヒなずに済んだが、助けてくれたのが母親ではなく
知らない男に助けてもらったのが言葉にしようが無い位悲しかった。
12歳の秋に母親が入院した。
詳しい病名は教えてもらえなかったが3日程の入院だった。
入院した先が産婦人科で不自然に思えたのでよく覚えている。
その時も市議の人が見舞いに来ていた。
母親から聞かされる親父の話は、親父がろくでなしだったという話ばかりだった。
そうなの?とか疑問を持つように聞くと母親は不機嫌になった。
伯父から聞いた話を母親に本当なのかと聞いた。
無言だった。
従兄弟(兄)はどこまで経緯を知っているかわからないが、
自分が養子で、俺と兄弟である事は知っている。
従兄弟(兄)と会おうとは思わない。
話す事も無い。
あと、叔父夫婦は親戚中と仲が悪いのではなく、母親が出る親戚の集まりだけ席を外していたそうだ。
親父の遺産は田畑や山林がかなりあったらしいが、今では家と畑が少しだけ。
何に使ったのか聞いたが、親父が建てた家のローンと俺の養育費と答えるだけだった。
家を建ててくれた大工さんは親父の同級生。
家の代金について話してくれたのだが、親父は一括で払ったそうだ。
現生をきっちり揃えて持ってきたのでよく覚えていると言っていた。
母親を信じられなくなった。
小中学校は地元の公立だった。
高校も経済的に私立は無理なので公立に行った。
大学は伯父にお金を借りて行った。
地元の大学を当初狙っていたが、伯父の話を聞いた後遠く離れた大学に変えた。
とにかく母親から離れたかった。
就職もその地方でした。
伯父への学費返済も終え、少しずつ貯金もたまり始めた。
女性不信になったが最近ようやく彼女もできた。
地元には帰るつもりは無い。
去年母親が、俺が帰ってこなくて寂しいと電話してきたが知った事ではない。
母親が暮らしている家土地も、母親が介護が必要になったら処分して介護ホームに
入所させる資金にするつもり。
親父が残してくれた家だけど、悲しい思い出と嫌な思い出しか残っていない。
俺は親父のあぐらの上に座り、頭をなでてくれた手の温もりの思い出だけあればいい。
以上、長々とすまなかった。
>>444
お父さんがきっと見守ってくれてると思う。
幸せになることが何よりの父親孝行だな。
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