統合失調症の母親が「自サ.ツ.したい。ひとりで逝くのは寂しいから一緒にタヒんで欲しい。」と言い出した。
その頼みを断った日の夜中、ふと目を覚ましたら
枕元に母親が立っていた。
そうして自分の顔をじっと眺めていた時が人生最大の修羅場。
幼稚園の頃は教育ママではあったと思うが、まだ風邪を引くと
自分の好きな焼きリンゴをつくってくれたりする優しい面もあった。
小学校1年生の時には、母親は発病していたと思う。最初におかしいと
気づいたのは、母親が実家の祖母と電話した後、
「きっと今の電話、お父さん(夫)はこっそり聞いているわよ。」と必ず自分に話すこと。 続きます。長文です。
それからも親関連で修羅場がたくさんあった。
自分のピアノの習い事に母親がついてくるのだけれど、4歳下の弟はまだ小さくて一緒にピアノ教室に連れてくると騒いでしまう。
なので、家で一人で留守番させていた。三歳児を毎週2・3時間は家で一人にしていたと思う。
そして、習い事が終わって家に帰ると母親が弟をドナりだす。
テレビを勝手に見ていた。やっておきなさいといった勉強が終わっていない。
どうして言う事を聞かないのか。そんなに言う事が聞けないなら、テレビと一緒に家から出て行け。と。
三歳の弟は家から出されて、ごめんなさいと何十分も泣いている。
父はその頃から仕事が忙しくなり、月に2・3日しか帰って来なくなった。
自分は、小学校が終わったらすぐに習い事。その後は自宅で勉強というスケジュールが週5。土日も習い事が入っていた。学校の友達はあまり出来なかった。
中学受験をすることになって、塾に通いだしてからは塾に友人が増えたのは嬉しかったけれど、母親の病状は年々悪化していった。
・隣の家の人がいつも自分の話を聞いている。いつも自分の悪口を言っている。
と言う様になった。
そして、今思うとずいぶん気づくのが遅かったなあ。と思うのだけど、
小6の時他の家と自分の家で違うことがあるのに気づく。
母親と父親が苗字が違う。
2月1日の中学受験日の2ヶ月前、どうしてなのか悩んだ末母親に聞いてみた。
「お父さんとお母さんは結婚していない。お父さんには奥さんがいてそちらにも子供がいる。」
父に懐いていた自分は物凄く混乱した。二ヵ月後なんとか志望校に合格したが、
精神状態は最悪だった。
折角入った志望校で、中1の間は物凄く暗かった。ときどき人の声がちゃんと聴こえなくなった。そのせいか、気がついたらいじめられるようになった。
部活の先輩達が優しかったのが救いだった。図書館の先生も。
毎日素敵な本を教えてくれた。大地の子エイラという話が好きになった。
そのうちに気がついた。父が帰ってきた時家で話しかけるのは、趣味が父に似た自分にだけだった。
弟に話しかけるのは、弟を何の理由もなくなぐる時だけ。普段は無視。
中2から高1までの間は、弟の小4から小6の中学受験勉強期間だった。
母親は病状が進んでいたが、弟の受験に必タヒだった。
父が珍しく弟に話しかけたり、自分が弟を遊びに誘うと半狂乱になってドナりだした。
食事の時間以外はずっと勉強。テレビやラジオ・ネットはもちろん無し。
プレッシャーがすごかったと思う。弟は第一志望に落ちた。
それに母親が切れた。
「私がこんなに頑張ったのに!どうして受からなかったの!」
絶叫しながら一晩中まな板でシンクをなぐりつける音が響いた。
子供が自分の思い通りにならないストレスで、更に母親は具合が悪くなる。
近くを通った車や通行人も自分を監視していると言い出すようになった。
家の中は、会話が盗聴されていることになっているので、必要事項は筆談で伝えるのがルールになった。
私立探偵を雇って、近所を通る車を一台一台調べたり、
K察にストー力ーされていると駆け込むようになった。
自宅にいると盗聴されて気が休まる暇がないと、高いホテルに一人で泊まる日もあった。
妄想・幻聴がひどくなると、そばを通りかかった人にいきなり
「あなた今私を付回しているでしょう。わかっているんだからね!」
と叫びだす。
その場では、母親をこれ以上暴れさせたくないので、少し距離が離れた後その人に謝りに行く。
妄想で、近所の人に脅ハ.クされていると思い込んで、他の家のポストに貯金通帳と印鑑を入れてしまう。
監視カメラに母が写っていてK察が家に来た。
高校の頃には友人も増えて、自分の家がおかしいのがよく分かってもう限界だった。担任の先生はそれに気づいて励ましてくれた。
就職を機に一人暮らしを始めた。
なんだかんだそれからも色々あった。母親のタヒをもって絶縁。実家とは疎遠。
自分は今度結婚することに。一区切りとして書き込みました。
誰にも相談できず2chで母のことを相談したとき、励ましてくれた人、覚えていないかもしれないけれど、ありがとうございました。レスを保存して心の支えにしています。
タヒぬ前にもう一度だけ、おいしい焼きリンゴを作ってくれたおかあさんに戻って欲しかった。
長文につきあってくれた方ありがとうございました。
>>300
おい弟は。
>>301
IDが違いますが300です。弟とは今も連絡を取り合ってます。
一番の被害者は弟なのですが、弟の家庭内ボウリョクが自分に向かってからは、あまり会えていません。
もっと親に負けず、弟を庇えば良かった。
彼のことを一番後悔しています。
今は友人に恵まれているようで、そちらのご家庭で普通の家庭の雰囲気を知ったと言っていました。
>>300
うーん、大変でしたね。そんなことしか言えないけど。
どうぞお幸せに。
母親タヒんで弟だけ残った実家と絶縁する意味あるのか?
>>302 ありがとうございます。
>>305 母親とやっと縁が切れたって意味で書きました。
毒親の本を読んだりア○ルトチルドレンについて知ってから、父に弟と平等に扱ってくれ、弟に過去の事を謝ってくれと言ってからは、少しだけ関係が替わってきたかもしれない。
母親にとっては弟が愛玩兼プレッシャー用、自分がサンドバッグ。
父親は逆でした。
他人事、、、実家の人間関係の事を思い出す時は出来るだけ客観的になろうとしてるからかもしれない。
気分を害したらすまない。
弟さんがあんたの事どう思ってたか、一度聞いてみたいね。
父親は母親の病気をどう思ってたんだろう。
母親の親戚とか誰か相談できる人がいたら
もう少し違ったんじゃないかって思う。
>>308 ○○ちゃん(自分)は優しい。でも僕を下に見てる。家族の大切なことを僕に言わない。
お父さんとお母さんが役割があると思ってるのは○○ちゃんだけだ。
そう言われた事があります。
>>309 父親は何度か精神科に連れて行っていました。ただ、母親は病気の自覚がなく通院も投薬も拒絶していました。
母方の実家・親戚は遠方で飛行機の距離でした。結婚せずに子供を産んだことで親戚から絶縁されたと、後から聞きました。
ただ祖父母は時々会いに来ました。
>>307
お父さんとは、今も会うの?
本妻さんとその子どもがいる家庭があるんだよね?
本妻と子どもたちはあなた達の存在を知ってるの?
>>310 >>313
まとめてのレスですみません。
父とは一年か数ヵ月に一度、会っています。
彼は彼で責任を感じているのかもしれない。自分と弟の前ですまなかったと言っていました。
父親の奥さんと、そのお子さんは私たち兄弟のことを知っています。
一度、大人になってから腹違いの兄弟から自分に連絡がありました。
そちらのご家庭も大変だったと聞きました。
父親はめったに来なくて、糖質の母親ひとりで子育てしてたんだよね
誰か気づいて母を病院に入れたり子どもたちをなんとか(施設とか)しようとしたりしてくれる人はいなかったのか
>>311
当時は、ここ十年のようにD Vの通報や、精神科にかかること、統合失調症の知識も一般的ではなかった、、、関わるのが怖かったのかもしれません。
誰かが通報していてくれていたらとは思います。
その頃は、家族以外に危害を加えようとして始めて強制入院に出来る。父親は入院させる権限がありましたが、医者に無理に入院させれば自.サ.ツ.の恐れがある。と言われて断念しました。
学校の先生達は薄々気づいていました。でも何も出来なかった。自分も相談出来ませんでした。
弟と一緒に習い事に向かって歩く、長い坂。
硯と墨汁が重いよ。弟が立ち止まって私に文句を言う。
私は弟の荷物を持って、しゃがんでみる。もうちょいだよ。
弟が私の背中で笑い声をあげる。背中が温かい。耳元で言う。_ちゃんだいすき。
このままどこか遠くへ行きたいと思う。
遠くても電車を乗り継いで祖父母の家に行くなり保護施設へ行くなり、自分で出来る事があったのを知ったのは大人になってからでした。
ここの皆さんのレスを見てもっと親戚に連絡を取ってみるなど、助けを求める方法もあった事を痛感しています。
色々質問してくださった方、夜遅くにありがとうございました。
>>316
いやいや、あなたたちは子供だったんだから仕方がないよ
周りの大人(特にお父さん)がなんとかしてやれなかったのかと思うと切ないね
母親の影響で姉弟お互い助け合うこともできないぐらい
自分のことだけでいっぱいいっぱいで周りを見る余裕が無かったんでしょう。
この先トラウマを抱えることになるとおもうけど、いろんなスレがあるから
吐き出しにくるといいよ。
>>300
結婚おめでとう。幸せになって。
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